動因または表現意図から見た描画の発達過程

GWも残すところ、今日を含めてあと3日となりました。みなさんはいかが連休をお過ごしでしょうか?

私は漠然と「これとこれとあれをやる」といったぐらいのプランしか立てておらず、内心「ちょっと失敗したかなぁ~。もっと計画立てて有意義な時間を過ごせばよかった」と今更ながら後悔の念にかられていますが、、、そのぐらいだらだらとした時間を過ごしています・笑。

そんなわけで、「ちょっと気合入れて本を一冊でも!」と思い、今以下の本を読み始めました。


思春期の美術教育 ―造形表現の質的転換期とその課題―
新井哲夫 編著  日本文教出版


まだ読み始めたばかりですが、「第2章 動因または表現意図に基づく描画の発達過程の再検討」にとても興味を引かれたので、いつものように「メモ」として以下に書き記していきます。もし宜しかったら最後までお付き合い下さい。


なぜ自分が興味を引かれたのか?大きく3点。

 
 
※クリックすると拡大してご覧になれます。


① 子どもが絵を描く発達段階を従来の「形式」からの視点ではなく、「内容」つまり「動因・表現意図」から捉えている点がとても新鮮!

それは常々、私が子どもたちと接している時に絵をどのように描くのか?ではなく、どうしてそれを描きたいのか?=「動機やその背景」をとても大切にしているからです。

さらに言及すると、この物事の起点となるべき動機の部分の追究が、これまでの美術教育に足りなかった部分のように思えてなりません。

 
② 子どもが思春期になると、絵を描かなくなってしまう原因としてこれまで言われてきた「自信喪失説(以下)」ではなく、「主として言語の運用能力の発達に伴って生じる描画に対する興味・関心の低下と、それがもたらす表現活動への動因や表現意図の形成のむずかしさに起因」するという考え。「描かなくなること」はとても自然な流れであること。


【自信喪失説】
つまり思春期は、認知能力の発達によって物事を客観的に捉えるようになり、描画においても写実的な表現に憧れるようになるが、その技術を十分に身に付けていない子どもは、客観的な認識の能力の発達に起因する批判的意識の高まりによって、自らの描画の稚拙さを自覚することになり、その結果自信を喪失し、描画を放棄するというもの。

・・・部分的には正しいが、それを主要な原因と考えるのは誤りである。

・・・言語の運用能力の飛躍的な発達によって、多くの子どもは自分の考えや感情の主要な伝達手段として言語を選択する。

・・・思春期の子どもたちの心情からすれば、他のジャンルと比べて描画は、自己表現(自己表出、自己放出)の手段として、内向きで抑制(禁欲)的過ぎるという印象を抱き、敬遠されてもおかしくない。
(P72~73より一部抜粋)


③ 「表現とは何か?」そもそも子どもが何かを描いたり作ったりする行為を表現と呼ぶことに、最近少し違和感を感じるようになってきた。子供達の制作に取り組む様子を見ていて「自分を表現するため」に描いているというよりも、「純粋に戯れている。夢中になって遊んでいる」の方が近い。英語で言えば、「express」よりも「play」に近い。もちろん両者を断絶することはできない。

きっと子どもの表現と大人の表現には根本的に異なる何かがあるのだと思う。それは何か?

子どもにとって絵を描くこと(表現)が、筆者の言う「主観的な感覚や感情を丸ごと放り込める唯一の身近なメディア」だとすれば、大人にとっての描くこと(表現)は、右手に子どもの頃の遊びの経験を持ち、左手にその思春期で培う認知能力をもう一つのツールとして、世界を見渡す広い視野をもちあわせながら、造形的な表現や鑑賞に対して、無自覚だった自分や回りの世界に対して意識的に、自覚的に向き合うこと。

もしかしたらそれは地域社会やコミュニティにおいて、自分が他者とつながりを見出していくこと、心地の良い居場所を創造していくことも「大人の表現」の一つなのかもしれません。

思春期をとうに過ぎた大人たちが今、この二つのツールをうまく活用することができないのであれば、このアートコンパスではその方法を一緒に探っていきたいと思う。

個人的に美術教育は子どもたちにとって、大人たちにとって、それぞれの多様な目的(表現)のための一助になれればそれで良いと思う。




きっとこれらの情報を頭の中で改めて整理し、アートコンパスに参加する年齢の異なる、またそれぞれの表現意図や動因が異なる子供や大人たちに対峙したとき、柔軟かつ多様な対応力でその場を進行できると思われます。この力もつけていかねばと思いつつ。また残りの休日をのんびりと・・・ではまた!





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