私の学び

写真作品「Continuity(Roman Wall)」


イギリスに留学していた頃、私の研究テーマは「Cultural Identity」でした。

カルチャル・アイデンティティ?

直訳すれば「文化のアイデンティティ」

つまり「それぞれの文化において、私が私でいられること。一人の人間として私が存在し、生きていくこと」とでも言いましょうか。

このテーマは20年経った今でも変わりません。

ロンドンでの3年間はこのテーマのもと、外部者(日本人である私)の視点から見た「イギリスを基点とするヨーロッパ文化の構造を造形で表現していた」と言えるかもしれません。


卒展での作品「Duration(継続)in London」

立体作品

写真作品「Duration in Berlin」


卒業後はもう少しヨーロッパの文化を別の国から見てみたいという思いがあり、当時お世話になったパーソナルチューター(アンジェラ)に相談し、確かオランダかどこかのアーティストレジデンスに申し込み、ダメだったら日本に帰国して、今度は自国の文化の構造を探求してみたいと思っていました。(結果、アーティストレジデンスはダメだったのでそのまま帰国)


日本に帰国してからの数年間は「ロンドンミス(ロンドンがさみし~)」と共に、日本の見慣れた景色が新鮮に見え、(例えるなら、今までかごの中から外を見ていた景色が、一度かごから出て外の世界を知り、またかごの中に戻ってから外を眺めるのとでは、全く見え方が異なってくること)特に日本の文化は自然と密接につながっていることから「里山文化」や「風土」に始まり、日本の建築や空間デザイン、環境デザイン、まちづくり、そしてコミュニティデザインへと、私の興味の幅が広がっていきました。


帰国後の作品「August Green(8月の緑)」

ドローイング作品:自然の流れを一本の線で表現

写真と立体作品「明と暗」



市民参加型のアートプロジェクト


この一週間、私は加藤周一氏が書いた「日本文化における時間と空間」という本を読み、20年前の留学時からの記憶が掘り返された状況に陥りました。

今書いているブログもこの本がきっかけです。


同氏の日本文化の時間と空間の結論は、「今=ここ」

以下、本文から長文ですが抜粋します。


時間について:

日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である。現在または「今」の出来事の意味は、それ自身で完結していて、その意味を汲み尽すのに過去または未来の出来事との関係を明示する必要がない。時間の流れには一定な方向があるが、始めもなく、終わりもなく、歴史的な時間の流れは、特定の方向へ向う無限の直線に似る。その中での出来事の前後を語ることはできるが、それ以上に時間の全体を構造化して考えることはできない。(P.233)

空間について:

「空間」の全体は無限の広がりである。部分は「ここ」、すなわち「私の居る場所」である。その場所は、典型的にはムラ共同体であり、境界は明瞭で、境界の内と外の二つの空間がムラ人にとっての世界の全体を作る。ムラの領域は世界空間全体を分割した結果ではなく、ムラの集まりがクニを作り―クニが何を意味するかはさしあたりの問題ではない―、空間の全体はクニの外部の無限の広がりとして与えられたものである。私の住む場所=「ここ」がまず存在し、その周辺に外部空間が広がる。外側空間の全体は、所属集団の内側と直接の取り引きをもつ特定の面(たとえば仏教や工芸)を除けば、強い関心の対象ではなかった。(P.235)

つまり:

部分が全体に先行する心理的傾向の、時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。部分と全体との関係において、「今」文化と「ここ」文化は出会い、融合し、一体化して、「今=ここ」文化となる。(P.238)


しかし、私たち日本人の中には(私も含め)例えばムラ社会や世の中の同調圧力に対して、自身の自由が奪われ、嫌悪感を抱く人々が少なくない割合で存在するはずです。また他の国々の文化においても然りだと思います。

つまり、自国文化の特殊性と自分という存在との間に矛盾を感じることもあるわけです。

個人的には、その矛盾を「超越?」ではなく、「融和?」でもない、「喜び」と「楽しさ」、そして「美しさ」が目の前にある矛盾を乗り越えさせてくれる気がしています。

ここに私がアートをこよなく愛する理由があります。


けだし芸術的創造性は、自国―あるいは故郷―の文化があたえる条件の特殊性を徹底的に追求した極限において、芸術の普遍性へ向ってつき抜ける(のり越える)運動によってのみ成立するものだからであろう。(P.252)


仮にこの日本文化の構造が確固としたものであるのであれば、過去の日本人がその超越としての試み=宗教、禅、等々、そして私にとってはアート・芸術を媒体に、この先益々人々の生活の中で芸術の役割が重要になってくるように思えてなりません。

多様な世界へと向かう今、自国の文化をどのように捉えなおし、私たち一人ひとりがどのようにより善く生きていくのか?

能を初めて見たとき、歌舞伎よりも本能的にしっくりと来たことを覚えている。
能の時間は、まさに「今」を集約している場に他ならない。


この本は日本文化の構造を見事に説明しており、こういう言説が個人的にたまらなく好きで、一ページ一ページ読み進めていく中で、留学時に夢中になって勉強してきたことがフラッシュバックのように、鮮明なまでの日本と西洋の文化対比として蘇り、興奮が冷めやらず。


いろいろな考えや問いがあふれてくる。

仮に同氏が述べるように日本文化の時間と空間の構造が「今=ここ」であるならば、資本主義経済の大波を超え、消失・崩壊した「ムラ」「イエ」をどのような文化空間へと創造していくのか?

おそらくそれは、ココ=ムラ共同体に対して「コミュニティ」を足し算?掛け算?・・・どんなプロセスにしろ、令和を生きる私たち日本人はコミュニティ活動を通して、ムラに代わる又はムラを補う新たな自分たちの居場所を作ろうとしているのかな?と思ってみたり。

みんなのアート広場

また、昨今メディアで頻繁に取り上げられている「(海外の国々に対し)日本人の自国文化に対するネガティブな部分=「今=ここ」」についても、この本を通して明らかに説明がつき、個人的には「だってそれが私たち日本人の根底を流れる文化の深い層であるから」と思いつつ、だからと言って安易にネガティブなものとして受け止めるのではなく、時間をかけながら先人たちが繰り返し歩んできた開閉交替の型(開国と鎖国)を辿りながら、ゆっくりと私なりの「解」を見つけていきたいと思ってみたり。


みんなのアートプロジェクト「秘密基地ピクニック2019」

「つくばランタンアート」

まだまだ読書後の余韻が続きそうですが、アートコンパスの活動と昨年から再スタートした個人活動を通して、私の研究テーマである「Cultural Identity」をもっともっと深堀りしていければ、それは私のwell-being(幸せ)以外の何物でもないわけで。

学びを実感できる一瞬一瞬が最高にハイってやつです!



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