ドローイングの意義・後編
この本の中の第14章“「外界を観察する」ということ”の中で、それを見つけました。
著者は次のように述べています。
著者は次のように述べています。
“最近の認知科学、脳科学によると、私たちが観察した外界と信じているものの、かなりの部分が、外界の情報ではなく、脳の中にすでに存在していたものなのだ。”
そして、その比率の高い人は固定観念が強い人と言えるといいます。一体どのような意味なのでしょうか?そのメカニズムを「推定」として述べているのですが、私の方で本文から簡略図に起こしてみました。(間違っていたら申し訳ありません)
“だから脳科学的には、「何かが見える」ことと、「実際に物体がそこに存在する」ことは、イコールではない。物体が存在しようがしまいが、引き込みが起き、ロックがかかり、認識というプロセスが完了すれば、本当に見えてしまうのだ。”
もっと簡単に要点だけ言うと、次のようになると思います。
私たちの脳は、目に入る全ての現象を捉えることは出来ず、そのかなりの部分を記憶の情報を頼りに「見ている」と認識して生活をしている、ということです。
私たちの脳は、目に入る全ての現象を捉えることは出来ず、そのかなりの部分を記憶の情報を頼りに「見ている」と認識して生活をしている、ということです。
“よく見知った環境と事物の中で、常識の範囲内で行動している限り、計算量はきわめて少なくすむのだ。目に入るすべてのものを詳細に観察できるほどの計算能力を脳は持っておらず、この省エネ設計により、ようやく日常生活を滞りなくこなすことができるのだ。・・・
しかしながら、このきわめて精緻で巧妙なメカニズムのため、人間は本来は観察すべきときにも省エネ計算で間に合わせてしまうことが多い。頭の中の計算処理だけで済ませてしまうのだ。”
繰り返しになりますが、固定観念や常識の範囲だけで生活をしていると、頭の中だけで物事を済ませてしまう傾向があるという事です。
逆に、子どもの脳の視点か考えれば、子どもたちにはこれからの未来を生き抜くために必要な記憶の情報ストックが大人に比べ足りないと言えます。そのため、子どもたちは遊びを通して外界の世界へ好奇の眼差しで「見たり、触ったり、聞いたり、臭いをかいだり、味わったり」と様々な体験を本能的に行い、大人になるための準備をしていると言えるのではないでしょうか。そして昨今の傾向である幼い時から「知識」を叩き込むことは、生命の発達過程を無視し「生きる力」を弱めてしまっているのではないでしょうか?
話をアートに戻します。
ドローイング(対象をよ〜く見て、触って、感じて、描く)とは、私たちの固定観念に頼らず、新鮮な気持ちで対象や現象と対面し、新たな情報(美しさ)を汲み取る。そしてその情報(美しさ)に対して抱いた感情や直感を大切に保ちながら、自分というフィルターを通した新たな美しさ(作品)へと転換していくことだと思います。
別な言い方をすれば、ドローイングという行為は、私たちの脳の活性化に寄与し、一人ひとりが持つ固定観念や常識を解き放ち、各々の独自性・創造性を引き出すためのエクササイズになるのではないでしょうか?
もしこの問いが正しければ、恩師が言ってくれた「頭の中で描くな、ちゃんとよく見て描きなさい。」の続きが、「なぜなら、あなたの固定観念を打ち破り、独自性(オリジナリティー)を引き出してくれるからだよ」と思えてなりません。
それはアートの基礎であり、醍醐味そのものではないでしょうか?
それはアートの基礎であり、醍醐味そのものではないでしょうか?
まだまだ講座のお申し込み、お待ちしています。
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