ドローイングの意義・前編

前回のブログで、今回の講座の目的を「対象をよ〜く見て、触って、感じたこと(インプット)を自分というフィルターを通して描く(アウトプット)その一連のサイクルを育むこと」としましたが、この事についてもう少し詳しくお話ししたいと思います。そして「ドローイングがなぜアートの基礎なのか?」この理由も合わせて私なりの考えをお伝えしたいと思います。



私がドローイングそのものについて本格的に学び始めたのは、高校を卒業後、都内の美術予備校の時です。始めた当初は、毎日木炭や鉛筆を持ってがむしゃらに描く日々を過ごしていました。そして今でも当時の恩師よりよく言われた事を思い出す事があります。それは、


対象を頭の中で描くな、ちゃんとよく見て描きなさい。


当時はこの言葉をあまり深く考えず、とにかく見たままに描くんだな?と思っていましたが、改めて振り返ってみると、とても理にかなった教えだったんだなぁ〜と思います。

例えば、「本物のカタツムリを見ずに、紙粘土で作ってみて下さい」と言われたとき、皆さんはどんなカタツムリを造形しますか?

一概には言えませんが、私たちの頭(脳)の中には、対象のイメージや記憶が保管されています。そこで過去の記憶をたどって、長細い胴体の部分を台上に置き、その上にくるくると渦巻き状に巻いたものを立ててのせてみると思います。

その形は誰が見てもカタツムリを連想する形だと思いますが、しかし実際には大きく異なるもっと複雑な形状をしているはずです。

つまり、私たちはかなりの部分で頭の中の記憶や思い込みのイメージから反応する傾向が少なからずあると思います。





偶然かな、たまたま今読んでいる本にとても興味深いお話がありました。

ソニーでCDなどの開発にあたった天外伺朗(てんげしろう)氏の「教育の完全自由化宣言!子どもたちを救う七つの提言」(飛鳥新社)という本です。


私の短くあらあらの要約となりますが、以下のようになります。


フロー(私たちが無我夢中で何かに取り組んでいる状態、スポーツの世界で言う「ゾーンに入る」も同義)を通して、教育の観点から見る私たちの成長(意識の成長・進化)を学校だけにとどまらず、会社や社会、日々の生活の中にもその必要性をこの本は説いています。よくよくこのフローについて考えてみると、誰しも皆このフローを経験した事はあると思います。但し大人になるにつれて日々の忙しさに流され、「あ〜時間も忘れて、何かに没頭したい!久しく無我夢中になっていないな〜」と思われる皆さんも多いはずです。

そもそもこの「フロー」状態は、脳科学の分析において、古い脳(大脳辺縁系=感情・情動を司る部分)に寄与するところが大きいそうです。ですが、近代以降、私たちは新しい脳(大脳新皮質=理性・論理的思考・言語を司る部分)の活性ばかりに目がいってしまい、古い脳を抑制していると言います。そのためこの活性と抑制が、教育に於けるいじめや不登校などの問題、更には社会の諸問題と深く関連していると。そしてこの事実(大脳新皮質シンドローム)に基づき、著者は教育界へ7つの提言を行っています。




そして話は、過去現在の優れた教育学の実践者たち(ガードナー、モンテッソーリ、シュタイナー、デューイ、ニイル、グリーンバーグ、堀真一郎氏)引用しながら、今現在の日本における画一的な知識偏重の「与える教育(国家主義教育学)」から脱却し、今の時代に必要とされる「引き出す教育(人間性教育学)」への展開へと進みます。ちなみに英語(education)の語源は「引き出す」を意味します。



ではこの本の内容と、今回のドローイングと一体どんな関連性があるのか?

次回の後編に続きます。・・・・




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