関係論的発達観について

改めまして、新年明けましておめでとうございます!

皆さんはこの年末年始をどのようにお過ごしでしょうか?

私は年末の数日をかけて部屋の大掃除をし、それと同時に買いためていた本を読み始めながら、そしてたるんだ体に鞭打って夜にランニングをしながらまったりと過ごしています。

ですので、年始のご挨拶以外はブログも含め、何もしない予定だったのですが、どうしてもメモでもいいから書き留めておきたい内容と出会ってしまったので、以下に記します。もしご興味のある方は最後までお付き合い下さい。



それは「関係論的発達観(Relational View of Development)」と呼ばれる言葉にです。


この言葉は現在進行形で読んでいる「幼児教育へのいざない 円熟した保育者になるために(佐伯 胖・著)」の中に出てきた言葉です。



例えば、子どもの発達について考えた時、私は今まで漠然と、年齢ごとに発達する内容や項目みたいなものがあって、段階的にその能力を獲得していくイメージでした。そして近年、その発達段階が整備され、各々の発達に即して指導していくというもの。

この考えは「個人能力還元主義」と呼ばれるのだそうです。

そしてこの個人能力還元主義を否定する発達観が冒頭の「関係論的発達観」というわけです。

では一体どのような発達観なのでしょうか?


この観点の中の発達とは、「見る人(大人)」と「見られる人(子ども)」、その両者の相互関係として立ち現れるコトだと述べています。

私たち大人は子ども達に対して、私たちの文化における価値観や社会慣習によってある程度規定されている道徳的価値観に基づいて「善くなってもらいたい」という願いをもって見守っています。

そしてその道徳的価値観は、私たち大人も何が本当に正しいのか?時代とともにその価値を問い直し、再構成している営み=「文化的実践(Cultural Practice)」の中で生きています。そして子供達はその大人たちの営みの中に参加しているわけです。

発達を見られる人=子供達は、そのような大人や地域や社会、文化の願いのまなざしの中で、応えようとし、取り入れようとする。つまり、発達とは子どものこの取り入れたことを「見せること」と、大人たちが「見て取ること」の相互作用の中で立ち現れる現象だというのです。

子どもに向かうわたしたちは、狭い、固定的な価値観にとらわれることなく、「人間らしさ」とはどういうことかといったような、さまざまな社会や文化を越えて、人間として本当に大切なことを大人自らが追求し、そういう大きな、未知なる未来の文化の営みに、子どもをその成員として参加させていく、という考え方をしなければならない。(P.86 )

関係論的発達論では、人の「発達」を個人の(頭の中の)認知構造の変化という見方をしない。そうではなく、発達というものを、子どもが生きている社会、世界、共同体、そこでの人々の営み、活動などとの「関係」のありようの総体の変容として捉えるのである。(P.94) 

関係論的発達論では、そもそも文化というものを明確な実体として想定しない。子どもをとりまく人々の「実践」によって、そのときどきに創出されているものであり、「より善く」生きるために「継承しつつ、創生しつつ、発展しつつ、変容しつつある」人々の集合的な営みを「文化的実践」として特徴づけるのである。人々が「こういうモノ(コト)が善い」、「こういうやり方が望ましい」としていること、ないしは、そのようなことを「模索していること」について、それを味わい、共有し、もっと善くしようと、共同的に営んでいること、そのことを、他の人々に伝え、残し、歴史化しようとしていること・・・・・・これらの営み全体が「文化的実践」なのである。(P.94)


本からたくさん引用してしまいましたが、一語一句、とても心に響きました。

アートコンパスの活動は、子どもから大人までみんながアートをともに学び、子ども達だけでなく私たち大人もともに成長・発達し、今のこの時代をもがきながらも泥臭く楽しみながら、私たちの生活がより善く豊なものへとなる文化的実践でありたいと願っています。

それではまた!




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